プロットについての考察・01

ほんとうにプロットは必要か?

W_No_01.gif常識への疑問
●編集者や専門学校、大学のマンガ学科などでも、作品作りの第一歩はプロット作りという人間は多いですね。自分も編集時代、そういう指導をしていたまし。でも、ある時期からこの考え方に疑問をもつようになりました。少なくとも素人や投稿者、新人にはプロットは有効ではないのではないか……と。

プロットについての考察・02

ベテランの手法は有効か?

W_No_02.gif実は多様な作品創作法
●プロットの有効性を解く人は、「物語の方向性がブレない」とか「考えを整理するのに良い」と、力説されますね。その側面は自分も全く否定しません。また、ベテランの作家の多くが、プロット作成を推奨されているという、経験則からプロット制作の正しさを言う人もいます。これも否定しません。しかし、投稿者とベテラン作家は分けて考えるべきではないか……という保留がつくのです。

ベテランは、物語のポイントとなる部分を抽出する技術と経験値があるので、プロットをザッと作っておけば、作業が短縮できて効率的です。しかしこれは逆説的に、作業効率化の方法論を経験値が不足した投稿者や新人にプロット作りからやらせても、かえってプロットを作った時点での方向性に束縛され、自由度がなくなる事例が、自分の経験からも尊敬する主先輩方の経験からも、ものすごく多いのです。

プロットが出来ないやつは才能がない、と切って捨てることも可能ですし、実際そうやって切り捨てているマンガ講師も多いですね。しかし、浅学ながらもいろんなベテラン作家さんにも担当として間近で見させていただいた結果、必ずしも作品の作り方は一様では無いです。魔夜峰央先生のように、プロットどころかネームも作らずいきなり下書き、という作家さんさえ存在します。

プロットについての考察・03

作品は生き物

W_No_03.gif生き物を殺すのは何か?
●例えば自分の場合、原作原稿を勝手にマンガ家に変えられることは、多々あります。ただ作家だけでなく編集者も経験している身としては、作品作りは生き物だと認識しています。マンガ家と編集者の打ち合わせの中で、原作原稿を実際にネームにしたらシックリこない部分や、逆に想像力を刺激され膨らむ部分が、数多くあるのです。イヤむしろ、膨らむ部分がない作品はダメ。

ところが多くの投稿者や学生を相手にしていると、最初に立てたプロットに拘るあまり、生き物としてのネーム作りを窮屈にしている人間の方が多いのです。マンガ家は小説家ではありません(そういう資質を持った人も、山上たつひこ先生やすがやみつる先生のようにいらっしゃいますが)。漫画の場合、セリフと絵が一体で場面を構成しているので、それを文字で抽出するのは苦手な人が多いのです。

多くの人が『天才』と呼ぶことに異論はあまりないであろうアインシュタイン博士の場合、子供の頃は読字障害であったとされ、会話も上手くなかったとか。ところが、そのアインシュタイン博士、実に筆まめで書く方は何万通もの手紙を残したとされます。話すことと書くほどではなくても、マンガを書くこととプロットを作ることは、実は似て非なるものではないかと、ひとまず仮定しておきましょう。

プロットについての考察・04

達成すべき目的は何か?

W_No_01.gif教えることと育てることは別物
●このため自分は、ある時期から新人漫画家や担当していた投稿者に、「予定は30ページだけど、60ページになってもいいから、とにかく好きなようにネームで起こして」と言うようにしました。例えその時点では完成度は低くても、その作家が書きたいと思っている点を全部ネームで吐き出させて、その上で全体を俯瞰してネームを叩く方が、手間はかかっても完成度は高くなることが多いのです。

「それをやらせるといつまでも終わらないネームを書いてくる人間がいるので、プロットが必要」と言う人もいるでしょう。でもそれ、講師として生徒をベルトコンベアー式に授業をこなさせるための、自己都合の発想じゃありませんか? 目的が「生徒の才能を引き出し高めること」なのか、「定められた期間内にカリキュラムをこなす」かで、その意味合いは随分違うと思います。

もちろん、期日を区切るのは集団学習では必要ですが、いつまでも終わらないネームを書いてしまう生徒に対して、的確に問題点を俯瞰してアドバイスし修正できないような講師が、自分の都合を優先してベルトコンベアー式にルーティンワークに疑問も持たず、先生でござれで生徒を教えている状況には、自分は疑問を覚えます(生徒の問題点の見抜き方とか修正方法については、本稿の目的ではないので割愛)。

プロットについての考察・05

そもそもプロットとは何か?

W_No_02.gif根本から問い直してみる
●そもそも、プロットとはいったい何でしょうか? それは、演劇や映画の世界で、長大な脚本を読む手間を減らすために、物語の概要をまとめてダイジェスト化したものであって、実は作品の完成度を高める手段と言うよりも、100ページ前後もある脚本を読んで時間をムダにしたくない、手抜きの発想から生まれたものです(ココらへんについてはまた項を改めて詳述するかもしれません)。

もちろんプロット自体に、考えをまとめるための手段としての効能があることは、しつこいようですが否定しません。しかしそれは、自分で自分の作品を客観視し、調整する能力が高い作家には有効でも、大多数の人間には難しいのです。100ページになるようなネームを書く投稿者に、プロットを書きなさい掛けないのはアナタに才能がない……では、実は指導でもなんでもないのです。

調整能力に長けた作家は、そもそも編集との打ち合わせすら不要なことが多いのです。なんとなく物語の骨格のようなものを抽出し、何となく何十文字かでまとめ、なんとなく話を書けてしまう。ところが、そんな特殊な才能(100人中3〜5人は確実にいる)をもって、私はこの指導方法で○○をデビューまで導いいたとか、勘違いしている講師や編集者って、多いのです。

プロットについての考察・06

なぜ物語は生き物なのか?

W_No_03.gif表層意識と深層意識
●作品とは、計算尽くの部分から生まれるものではないのです。起承転結がしっかりしていて、受けそうなキャラクターを配置し、派手な事件を組み合わせれば傑作ができるのなら、誰も苦労はしません。そういう要素を寄せ集めれば傑作ができるのではなく、傑作はそういう要素を含んでる、ということです。この点が理解出来ないと、作品作りは本末転倒になります。

そもそも作品とは、書き手の自覚していない無意識(深層意識)下の不満とか欲求とか葛藤などが、フッと浮上し出現した時に、良いものが生まれることが多いのです。ところがプロットというのは、客観化・自覚化の作業なので、プロットを作る前段階で無意識下の要素がある程度浮上していないと、ただ物語の型を追うだけになってしまいがちです。だから投稿者や新人はプロットは不要なのです。

話が右に行ったり左に行ったりして、いつまでも終わらないとかの経験を何度でも繰り返し、経験値を貯めこむことが地力になるのです。そうやって積み重ねた失敗の経験値が、次の作品作りでは生きるのです。ところが効率優先では、そこをないがしろにしがちです。講義の消化の効率は良くても、才能を育てるという効率では必ずしも良くないのに……。

プロットについての考察・07

では具体的な手法は?

W_No_01.gif先出しより後出し
●そこで自分が推奨しているのは、プロットを作ってからネームを作るのではなく、ネームを作ってからプロットを作る、という手法です。自分の深層意識の欲求や不満や葛藤を引きずりだした、ごった煮状態の作品ネームを、吐き出してから一歩引いて俯瞰して、不要な部分や不足した部分を客観視するのです。順番は違いますが、コチラのほうが完成度が高まる事例が多いのです。

もちろん、多くの新人作家や投稿者は客観視が難しいので、編集者の役割が生きてきます。逆に言えば、編集者に必要なのは徹底的な客観視の能力です。作家は作品にのめり込み視界狭窄に陥りがちなので、一歩引く役割分担が必要なのです。作品の展開のキモとなる部分を抽出し、単純化すれば、それがプロットになるのです。こういう経験を繰り返せば、作家の中に自分なりのパターンや得意技が生まれます。

そうなると、読者に強引だと気づかせずに、物語に強引にエンドマークを打つ技術が育ちます。格闘家が、自分の得意技を出せる状況までポジショニングできれば、不充分な状態でも勝ちを拾えるようなものですかね。そこまでのステージに行けば、今度はおおまかなプロットを元に作品作りをしても、途中で破綻しても、なんとか着地させられるようになるのです。

プロットについての考察・08

物語作りの発達段階とは?

W_No_02.gif勝手に広がるイメージ
●これがより高い段階に至ると、ひとつの単語やワンシーンのイメージが浮かんだだけで、物語にすることが可能になってきます。例えば本宮ひろ志先生は、冬の日本海を歩く母子のイメージから『男樹』を発想し、勝新太郎はライターが出した3つの単語からTV版座頭市の物語を発想したそうです。落語の三題噺とかは、ココらへんの発想力を鍛える方法論ですね。

しかしこれらは経験値が高い・才能がある人間の手法であって、投稿者や新人には真似しても失敗することが多いのです(稀に天才型はそれができるので、事態をややこしくするのですが)。宮崎駿監督はシナリオなしでいきなり絵コンテを書いて『未来少年コナン』を作り、魔夜峰央先生はネーム無しで下書きに入りますが、それを素人がマネしても難しいのです。3〜5%の人間以外は。

よく例えに出すのですが、自転車に乗れる人間は、乗れなかった時の感覚を思い出せないものです。これをを読んでいるアナタ、思い出せますか? プロットや、場合によっては単語から物語を作れるようなステージに至った人間は、昔自分がどう試行錯誤して作品作りの文法を確立したか、忘れていたり記憶を組み替えたりすることが多いのです。

プロットについての考察・09

キャラクターが勝手に動き出したか?

W_No_03.gifなぜ勝手に動き出すのか
●「いや、自分は最初から担当に言われてプロットから作品作りをしていた」と言う人もいるかも知れなません。でもそれは、ネーム作りでの試行錯誤がフィードバックされ、プロットがまとまるようになっただけ……という視点は持てませんか? 逆にマンガ家なら、キャラが勝手に動き出して予定外の成長をしたという経験があリませんか? 多くの場合、そのほうが作品が生きて来ませんでしたか?

それは、自分の無意識下にある欲求や不満や不安や葛藤や人格が、キャラクターに投影されて、当初考えていた型から脱して自由に動き出したからです。作品作りは生き物とは、そういうことです。物語は自分の中の問題とシンクロしていないと上滑りするように、キャラクターも自分の人格の一部が投影されていないと、本当には生きてこないもののようです。

ココら辺の話は、マンゼミで詳しくやりたかった部分でもあるので、あくまでも概要だけに留めておきます。マンガ家が読み切り作品を描く機会が減って、訓練するまもなく連載に入ってしまうことの弊害も含めて、個人的には問題が多々あると思っています。この問題は根深く、思い込みと前例踏襲が跋扈しているので、最初にツイッターで書いた時も、疑問を呈される方もいました……。

プロットについての考察・10

まとめと雑感

W_No_03.gif名選手、必ずしも名監督ならず
●誤解を恐れずに書くなら、マンガ家が生徒を教えることに関しては、問題点もあると思っています。マンゼミの前書きでも書いたように、マンガ家はスペシャリストであればいいですが、人を教え育てるのはゼネラリストでないといけません。多種多様な個性を持つ生徒を教えようと思ったら、対応能力が必要です。ところが、なかなかそういう資質は難しいようです。

なぜならプロのマンガ家で、大ヒット作を連発するような人でも、弟子は全く育たないという人は珍しくないですし、逆にご本人の業績は今ひとつでも、弟子は地味ながらも数多く巣立つ方もいます。X JAPANのヨシキが見出したバンドが、X JAPANよりアルバムセールスの数字が上、なんて事態と似ていますが。最後の締めとして、藤子・F・不二雄先生のお言葉を引用しておきましょうか。


「かいているうちに、キャラクターがまんがを作ると同時に、まんががキャラクターを作っていくという相乗効果が始まり、次第に作者も意図しなかったような思いがけない一面をちらりと見せたりするようになる。」

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▼……studio PUGオススメComicsラインナップ……▼

ラインナップは今後順次増えていく予定です。

studio PUGのメンバーが制作に関わったお仕事です。
まだまだラインナップは少ないですが、
これからもっと増やしていけるようにがんばります!

MANZEMIカバー.jpg01-7.jpg浮世02.jpg浮世03.jpg浮世艶草子04.jpg龍馬伝.gifオレが日本を.jpg世界の王朝興亡史.jpg時代小説100.jpg

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